丸太町かわみち屋のそばぼうろは、僕の中では幼い頃から上等なおやつの定番で、店が近所のこともありよく利用していた。
ところが知らないうちに屋上のロゴマークも含めて、店名が一切消えていた。閉店でお決まりの、シャッターの前の挨拶文もなく、どうしたのかなと訝ってネットで調べたが何にも出ていない。websiteを見ると廃業したわけではなく、西ノ京本店があることが分かった。確かここには工場があるので、ここに移転したのだと勝手に思い込んでいる。
千姫のお墓の更にその奥に、この濡髪祠が祀ってある。
知恩院さんの公式websiteによれば、御影堂建設により住処を追われたキツネのために建てた祠とのこと。
今では祇園町の信仰を集めているそうな。
古来陰陽道では、北東(艮)の方角は鬼が出入りする方角として、また対角線の南西は裏鬼門とも呼ばれ、ともに忌み嫌われていた。
鬼門から鬼が入らないようにと、平安京では北東の守護として比叡山延暦寺が建立され、裏鬼門には石清水八幡宮が当てられた。
庶民の家でも様々な工夫がなされ、鬼の嫌がる柊の木を植えたり、難を転ずるとして南天を植える家も多い。
現代でも京都の街なかにはいたるところに鬼門除けを見ることが出来る。
そんな中、ここではちょっと変わった鬼門除けを載せていきたい。
田の字地区の外側でも、いくつもの鬼門除けを発見することが出来る。
こちらは角の玉砂利に南天の木が施されて、二重の鬼門除けになっている。
両家とも少なくとも昭和40年代以降の建物と見るが、施主の考えで鬼門除けを施したのだろうか?非常に興味深い。
京都の町中では、路地(ろーじ)とか辻子(ずし)とか呼ばれる、家と家の間に通じる細い道をよく見かける。幕末に刊行された書籍(京羽津根)には、91ヶ所もの辻子が紹介されている(京都検定公式テキストブックの受け売り)。
路地と辻子の違いには諸説ありそうだが、通り抜けることのできるのが辻子、行き止まりになるのがろーじだと思っている。僕の小さい頃には近所にもたくさんあり、よく遊んだものである。長じて、町家が取り壊されるとともにろーじや辻子も姿を消していったが、それでもまだかなりの数が残っているのではないだろうか。
その内の一つが、この膏薬辻子である。四条通新町を西に行き、郭巨山の会所の手前を左に折れたところから始まる、クランクになった細い道である。
四条通から南を見たところ。正面は杉本家の塀の一部。
西から東を見る。右側の塀は杉本家。
膏薬辻子のいわれはこちらを参照されたし。
現在コインパーキングになっているところは以前民家があったので、この辻子は非常に暗くて入りづらい印象があったが、最近では有名になったせいか物販の店舗も増え、明るくなってきた気がする。
東福寺方丈では、方丈を囲んで東西南北それぞれに異なるお庭が配され、八相の庭と呼ばれている。
他の禅寺に多い伝統的な枯山水とは趣が違っているが、これが昭和の作庭家重森三玲の手になるものである。
南庭
同行したM君は自宅で小さな庭を楽しんでおり、この文様の描き方(作業の仕方)に興味津々であった。
斬新なデザインの北庭西庭東庭南庭も角度を変えて見るのも面白い。
いつも思うのだが、伝統に捉われることなく革新的な庭を作り出した重森三玲も素晴らしいが、それを許容した東福寺も立派だと思う。
不易流行と言うか、単に古いものを墨守するだけでなく、新しいものも積極的に取り入れてきたからこそ京都は常に新鮮であることの、一つの事例を見たような気がする。