藩邸・邸宅跡

冷泉家

縁あってご紹介いただいたので、冷泉家の中を拝見した。 冷泉家は現役のお屋敷なので、「邸宅跡」に入れるのは失礼だが、 他のジャンルがないのでこのままでお許しを願う。右近の橘に左近の梅。平安時代に花と言えば、桜ではなく梅であった名残かもしれない…

あさの生家・出水三井家跡

絶好調朝ドラ「あさが来た」主人公あさの実家は出水三井家(後の小石川三井家)である。 江戸時代にあった三井十一家の一つである。他の三井十一家に関する記事 新町三井家その生家跡には現在ホテルが建っている。 地図を見ても相当広い屋敷だったようで、 …

本阿弥光悦屋敷跡

今年は本阿弥光悦が徳川家康から鷹峯の地を拝領してから400年が経ったということで、 京都では「琳派400年」として様々な展覧会やイベントが行われた。本阿弥光悦といえば、豪華な船橋蒔絵や刀剣の鑑定を業としているなど 大富豪のイメージを抱いていたが、2…

三井京両替店跡

「あさが来た」のあさは、ドラマでは京都の今井家の生まれと言うことになっているが、 実際のモデルは三井家である。京都には「三井十一家」と言う同族組織があり、 この地はそのうちの一つ新町三井家の邸宅として近年まで使用されていたとある。あさやはつ…

俊寛僧都山荘跡

物語であまりにも有名な、平家打倒の密議が行われたとされるのが、 僧俊寛の鹿ケ谷の別荘である。霊鑑寺の横を抜けて大文字に上る途中にその山荘跡を記した石碑が立っている。 大体の場所は認識していたが、これほどの山の中とは思わなかった。 白河上皇が法…

尊攘堂

尊攘堂は長州藩の品川弥次郎が、幕末に活躍した 尊王攘夷派の人々を記念して建てた建物と解説板にある。 元は高倉錦にあったものが京都大学構内に移築されたらしい。京大構内にはこの様な史跡が他にもたくさんある。

六勝寺跡

岡崎地区一帯が国の重要文化的景観に指定された。 京都市美術館や国立近代美術館、京都会館などの文化ゾーンに加え、 最近脚光を浴びてきた疏水を中心とした南禅寺別荘群も含まれている。 エリアとして保存してほしいものであるが、平安時代この一帯には 六…

岸駒屋敷跡

我が家から2筋西に行った東洞院丸太町下るの風景である。 コインパーキングの傍のお地蔵さんの祠の隣に石標がある。 「此辺画家岸駒居住地」とあるように、江戸時代に岸派の岸駒(がんく)が住んでいたところである。この一帯は画家が多く住んでいたと言わ…

鷹司邸・みかんの木

京都の町の真ん中で、これほどのミカン(夏蜜柑?)の木を 見ることは、珍しいのではないだろうか?今でこそ京都御苑の一角となっているが、この地は昔は関白鷹司邸であった。 一説によると、貴族は食糧自給のため邸内に実のなる木を植えていたとのこと。 堺…

欣浄寺

見ての通りの小さなお寺で、通りからも奥まっていて 看板がなければ分からないほどである。この寺に魅かれた理由は、深草少将の屋敷跡だからということ。墨染井深草少将と小野小町の塚。小野小町伝説は各地にあるが(これもその一つ)、ここに塚があるのは …

撞木町

伏見橦木町といえば名だたる遊郭のあった場所である。 歌舞伎の仮名手本忠臣蔵で大石内蔵助(大星由良助)が遊んだとされるのは祇園の一力茶屋であるが、 実際はこの橦木町だったらしい。 それを示す石碑も建っている。なるほどここなら山科の家も近い。

山本覚馬邸宅跡

初代京都府議会議長というよりも、会津藩士や新島八重の兄としてのほうが 有名かもしれない山本覚馬が住んだところである。 斜め向かいには仇敵旧長州藩邸があり、因縁の場所かもしれない。 また、この地は豊臣秀吉が造った御土居の跡に立っていると 案内板…

伏見奉行所跡

鳥羽伏見の戦いでは幕府軍や新撰組が立てこもり、 薩摩軍が陣取る御香宮との間で激しい戦いを繰り広げた場所である。 その間、200mも離れていないだろう。薩軍では中村半次郎が指揮を執ったはずだが、放送中の八重の桜では その名前すら出てこなかった。 鳥…

瑞蓮寺

京都には多くのお寺があり(一説にはコンビニの数より多い)、 門前に法語を掲げているところもたくさんある。 そんな中で、既成の印刷物ではなく住職が自分の考えで選び、 あるいは自分の言葉で書いているものが面白いと思い、注目してみる。 また、このお…

木屋町通御池上る

大村益次郎卿遭難之碑 佐久間象山遭難之碑木屋町通の二条から御池の間は、幕末好きには堪らない 歴史の宝庫であろう。「八重の桜」で主人公の一人であり、八重の兄である 山本覚馬が私淑した佐久間象山が河上彦斎に斬殺されたのも この地であり、大村益次郎…

千年の蓄積

この辺りは「応仁の乱洛中最初の合戦の地」であり、 その数百年前は大江山の鬼退治で有名な源頼光や 蜻蛉日記の作者として知られる右大将道綱の母が住んでいたという。 さらにこの向かいには、明治維新前夜に薩摩の小松帯刀が住んでいたと石碑にはある。千年…

因州鳥取藩藩邸跡

幕末に鳥取藩が京都でどういう役割を果たしたか知らないが、 高札によると、京都の政治的な役割が増したため藩邸を移転したとある。 元の場所(油小路下立売)に較べて、皇居(京都御所)に特別近くなったわけではないと思うのだが、 「幕末動乱期における鳥…

北大路魯山人生誕の地

美食家や焼物で知られ、多彩な才能を発揮した一種の巨人である。 星岡茶寮で使う器を自ら焼くために窯を拵え、そこから陶芸の道を歩みだしたという こだわりが面白い。上賀茂の太田神社の向かいにある。

廣野了頓邸跡

中京区室町通と新町通の中間に、三条から六角まで細い道が通っている。 この道は通り名がないが、了頓辻子(図子)と呼ばれる、いわゆる路地(京都の人はろーじと呼ぶ)のひとつである。 江戸時代にはこのような辻子が91もあったと、当時の本に書かれている…

仁阿弥道八邸跡

五条通東大路を少し西に入ったところにある普通の民家ではあるが、 塀を抉るように石碑が立っている。 近づいて見ると、「陶工仁阿弥高橋道八宅」と読める。 「にんなみどうはち」の名は、テレビのお宝鑑定団で初めて名を知ったくらいで、 江戸後期の京焼を…

山本亡羊読書室旧蹟

山本亡羊は江戸後期の本草学者で、ここは読書室と呼ばれた講義が行われていた跡である(下京区130周年記念誌より)。 蛤御門の変で焼失したらしいが、鬱蒼とした樹が生い茂る家の表札を見ると山本とあり子孫が住んでいるのだろうか。

茶屋四郎次郎邸跡

茶屋四郎次郎は安土桃山から江戸時代にかけての豪商であることぐらいしか知らない。 歴史の教科書で名前を見て面白かったので記憶しているが、それ以上のことは憶えていない。そんな瑣末なことでなく、もっと本筋を憶えておけばよかったのだが、、、。

源融・河原院跡

光源氏のモデルとなったといわれている源融の屋敷跡だと高札にはある。大邸宅であったのでかならずしもここが中心ということではないが、榎の木がこの屋敷の名残と言われているらしいので、五条大橋西詰めを下ったこの地に高札が建ったというのではなかろう…

京都慶応義塾跡

京都に慶応義塾があったことはあまり知られていないが、東京の分校として明治7年に開設された。場所は現在の京都府庁敷地内で、正門を入った左手すぐにある。思うように生徒が集まらなかったので1年で閉校になったと府庁の守衛さんが話してくれた。

岩倉具視幽棲旧宅

岩倉具視が尊皇攘夷派に睨まれて洛外に蟄居したのがこの岩倉(当時は岩倉村)である。岩倉具視がいたからその名がついたとか、その領地だったから岩倉という地名になったとかいうことはなく、たまたま岩倉村に逃れたということだったらしい(間違っていれば…

藤井右門宅跡

今日のテーマはこの町家ではなく、その隣にあるこの大きな石碑である。江戸中期の尊王論者藤井大和守直明(右門)の屋敷があった跡で、現在はこのような顕彰碑(大正十二年)が建っている。高札によると斜め向かいに薩摩藩邸があった関係で(現在は同志社大…

彦根藩邸跡

高瀬川に面して広大な屋敷があったとは思えないほど、ごちゃごちゃした木屋町沿いに石碑が建っている。このすぐ南には土佐藩邸跡に旧立誠小学校が建っている。攘夷派の彦根藩と尊皇派の土佐藩が接近して在ったということは、この付近を村山たか女が探索して…

吉村寅太郎寓居跡

木屋町三条上った東側の繁華街の中に2軒が並んでいる。吉村寅太郎は土佐の脱藩浪士で、大和で天誅組を立ち上げ挙兵したが、結局討ち死にした人物として知られている。最初は武市半平太の土佐勤皇党にいて、案内板は京都に来てからも武市の隣に住んでいたこ…

富岡鉄斎邸跡

富岡鉄斎は明治維新の後、各地で神職を務め、47歳のときにこの地に居を定め、画業に専念した(「京都府庁界隈歴史を歩く」より)。室町の一条を下ったところにある。 我が家の衝立である。なんとここにも鉄斎の扇面が表装してある。プロの人に言わせるとこれ…

京都守護職上屋敷跡

京都守護職は幕末の京都の治安を守るため、京都所司代などの上に置かれた。僅か6年で江戸幕府が崩壊したので、その後には現在の京都府庁が建っている。石碑はこの門を入った右手にある。 この旧本館(重要文化財)の中庭は隠れた桜の名所で、京都守護職松平…