吉村寅太郎寓居跡



木屋町三条上った東側の繁華街の中に2軒が並んでいる。吉村寅太郎は土佐の脱藩浪士で、大和で天誅組を立ち上げ挙兵したが、結局討ち死にした人物として知られている。最初は武市半平太の土佐勤皇党にいて、案内板は京都に来てからも武市の隣に住んでいたことを記しているが、武市寓居跡には案内看板が無くこちらだけあるのはどういう理由だろうか?