織田信長が本能寺で討たれたとき、この寺の僧が
亡骸をこの寺に運んで埋葬したと伝わっている。
もっともその当時は別の場所(今出川大宮)にあり、豊臣秀吉が都市計画で寺町通を作り、
京都の寺を一か所に集めた時、この地に移転してきたのである。
本堂にはゆかりの品々も展示されていたが、
織田信長の菩提寺は大徳寺総見院であるというのが、京都検定公式本には載っている。
そのことを案内の人に尋ねたが、何故か歯切れはよくなかった。
森蘭丸の墓
表通りからは想像できないほど境内は広く、
このように無縁となった墓石が一か所に集められていた。
このお寺の歴史を物語っているのかもしれない。